知りえた情報として、受け取ったこと全てフィルターにかけるよか、知りえた情報に確証を得るために行動する。
全ての情報に価値を与えるには、最低ツーステップは必要だ。
子供に「何故危険なのか」を説明したところで、本来痛い思いをしなければ、身を持って証明しなければ、「危険」などという情報は机上の空論だろう。
高校生のときに、
・自転車に乗っている最中に、前輪のロックをかけたらどうなるだろう?
(当時の前輪ロックは、走行中も稼動できる機構であった)
という疑問がふと沸いたことがある。
数学だの物理だの、いくらでも偉い学者が証明してくれる危険行為だろうが、それを行った人が身近にいたか? 知っている情報を組み合わせて答えが出たとしても、その結果が実生活とどう結びつくかなど、やって見なければわからないものである。
・結果
いわずもがな。
僕は自明なことを、身を持って知った。
人にいわせれば「想像力の無い子」と揶揄されるかもしれないが、一つだけ明確になったことがある。
・なぜ走行中も稼動するような機構になっているのか。
「あぶねぇじゃねぇか!」
その問題点に気づくためには、それを行わなければならないという必然性があったりする。
僕がその当時自転車の設計に関わっていたら、まず先に問題指摘をし、修正するべきことだったと思う。
知りえたことを実践することで、得るものがたくさんあるということを言いたかった。
経験を伴わない知識ほど、危険なものは無いということでもあるし、知識は経験から掘り下げられたものがほとんどである。
普段の生活の中で経験を生むことは少ない。余計なことをせず活動できるように環境が整備され、人々が努力してきたが、どの分野も制約があってこそ、その制約のなかで最大限に動こうという力が働き、ときとしてすばらしいモノを生み出すことがある。そして、制約を破ろうという動き方をする場合もある。
制約が自由を縛ることは無くて、自由を求める心こそが自由なんだと思う。
社会や産業や国や、はたまた個人は、
成長をすることをやめられない。
僕一人が今の生活で満足したところで、成長は続いていく。
心を停止して現状に満足しそれを維持したところで、確実に僕の体は変化していくし、それすらも止めたいのなら、石にでもなるしかない。
変化することに対して、その変化を自分の都合の良い方向へ向ける努力こそ自由を求めることともいえる。
「昔は良かった」など、どれだけ前から心が停止しているんだ。
最近は、何故そんなことを口にしていたのかすら、わからない。
わからないが、僕自身、僕の変化を知っている。