勉強しなきゃしなきゃ。
結局学ぶべきことが多いのは、実社会で必要性を考えた上でのことです。研究者の方々の視点というのは、実社会でどう役立つかという視点に今はシフトしている。
「お金にならないことは企業が許してくれない」
などという企業の研究者を見た。
興味だけを追っていける許容を今の社会は持っていない。
物理なども、理屈の元に結果が伴ったが、結局いま覚えているものは公式であったり。
それがどう興味に合致し、応用が利くかと言うものが理解できると一気に世界は広がる経験は誰もが感じることだと思う。
学べば学ぶほど、VSTプラグインなどはGUIがしょぼいから印象で悪い物だなどという先入観にとらわれていた自分がいると感じたり、そういった技術者の中では、GUIの設計が不得手であるために素晴らしいソフトウェアが評価されなかったり、公開に至らなかったりするのだなと思う。
そうやって、私達はコントロールされている。入りやすい物にばかり興味が向いてしまう。
入りにくいものにこそ入りやすさを用意するべきであって、それこそ入りやすいものに変容していくべきである。
「僕は数学が得意ではない」
「僕は古文がまったく理解できない」
といった自分へのレッテル貼りを行うことで自分を正当化する。そうではない。興味というのは本来道筋があれば誰もが到達できるべき場所であるはずです。そうやって物事は成長していくべきだ。
*
アナログ世代はデジタルを崇拝した。
デジタル世代になって、アナログを崇拝する。
これは刺激が当たり前のものとなったときに異なった刺激を求める摂理だ。
そこには、周囲の環境にに左右される人の心が見える。そして、それを多くの人が行うことで私達の興味などは、また失せる。
美しい音楽。
美しいという定義を誰かが広めてしまえば、
それは美しいものとなってしまう。
悲しいとか、楽しいとかそういったどうにも定義不可能な本能的に感じるものは確かにあるが、私達はもっと多様な価値観を受け入れるだけの生き物であるのだから、それを画一化してしまうことは、一番私達が感じる「楽しさ」を否定することだ。
他人に迎合することを元来楽しみと見出す人ももちろんいる。そういう面を誰もがもっている。
しかし、迎合しない分野にこそ楽しみを誰もが持っているはずだ。だが、迎合しないものは敷居が高くなっていくのである。
そうして、迎合にのみ楽しみを求めるように、
人は変容していく。
本来何事も多様であるべきだというのが私の考え方だ。流行った「オンリーワン」は同意しかねる。小数の同位体が必ず必要だ。
そういった、小さな結合が集まって大きな結合を作っている。それが本来あるべき姿だ。
そうやっていろんな分野が育ってきたはずだ。
ルールはルールだ。
私達が楽しい生活を送るための大前提だ。
しかし、ルールに乗って足を引っ張ろうとする人間こそがルール違反だ。
誰かが他人を「幸せではない」とその人の価値観のみで推し量ったり、自分とは非なるものを否定することで満足を得るものは、ルール違反であることをまず知るべきだ。
PSE法のことをBLOGで書いておきながら、書いた当時は署名していなかった。
もう少し感情に流されないもので見定めたかった。
僕らは知るということになれてしまっている。
本当は知ると言うことはもっと苦しいことだということを知るべきだ。
なぜなら、一つの考えでは世の中
「絶対に」統一されないからだ。